豊西の歴史

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 年代  事柄  写真
旧石器時代 ママ田遺跡
(磯団地付近)
 
縄文時代 大藪遺跡(磯区内),小御堂前(小学校前)縄文土器検出(※忍徳寺に保管)  
弥生時代 森地区(オゴ山、中稲場、茶屋前)弥生土器検出  
弥生土器(豊西小保管)
古墳時代  森地区内に丁塚(官女塚、万城塚、中塚、など)7基が存在した
丁塚古墳
奈良時代 伊勢神宮の神領として伊蘇郷(豊浜、北浜地域)日本書紀、和名抄に記載  
997年
(平安)
野依河田社(現豊玉、上区)、野依中社(森区)、礒神社(磯区)との文献記載あり  
1012年
(平安)
殿垣外遺跡(伊勢神宮の大宮司、大中臣(おおなかとみ)公兼館跡・奈良時代から鎌倉時代にかけて複合遺跡)
 
殿垣外遺跡
1232年
(鎌倉)
伊蘇郷「袴田村」「伊蘇村」「野依村」と光明寺古文書にある  
1240年
(鎌倉)
袴田亭跡
宮後朝棟(豊受大神宮一祢宜)の住居
後の後村上天皇の宿泊記録もある
 
袴田亭跡(磯団地区)
1348年 
南北朝
袴田(コウダ)衆、大藪衆、度会衆として南朝方に参戦
1493年
(戦国)
磯城が北畠軍攻められ度会氏族(袴田衆、大藪衆)滅亡
死者1000人余り(内宮子等館旧記)

骨巌(コツカミ)さん
度会氏族墓地跡(磯区)
1563年 
1585年
(戦国)
慶光院の尽力により外宮、内宮の遷宮が約130年ぶりに行われる
 1576年
(戦国)
三瀬の変
織田信長により北畠氏滅ぶ。森区観音堂の木像観音は北畠家臣(森彦太夫)と一緒に落ち延びたものと云われ、北畠の守り本尊との伝説。
作は鎌倉期

十一面観音(森区)
1594年
安土桃山
豊臣秀吉、礒村の内100石を慶光院領と朱印する
 1600年
江戸前
 徳川家康により磯村は慶光院領、野依村は鳥羽藩領とする
志摩地方より開拓移住(西林寺系)
 
 1608年
(江戸)
 西林寺創建(上区)  
西林寺(上区)
 1665年
(江戸)
 託明寺創建(上区)  
託明寺(上区)
 1671年
(江戸)
 福浄寺創建(森区)
当初は森家の菩提寺、禅宗寺であった
 
福浄寺(森区)
 1685年
(江戸)
 長泉寺創建(小川区)  
長泉寺(小川区)
 1697年
(江戸)
 森区観音堂の鰐口に有力者森彦太夫の名があり
(森彦太夫は戦国時代から江戸中期まで世襲名)森区の呼び名の由来とされる(墓石は丁塚にある)
 
観音堂(森区)
 1705年
(江戸)
 山田奉行大岡忠相(のちの江戸町奉行)の指示により明野新田開拓のため、三河より移住、植山新開(植山区の始まり)(※当時山田奉行所は近くの有滝町にあった)  
記念碑(植山区)
 1707年
(江戸)
 玉雲寺創建(磯区)  
玉雲寺(磯区)
 1790年
(江戸)
 忍徳寺創建(森区、1690年との説もある)  
忍徳寺(森区)
 江戸時代 磯村(慶光院領 409石、久志本領 300石)
野依村(幕府領 1566石、鳥羽藩領 233石、紀州藩領  90石)
植山新開 (幕府領 223石)
※領地が大変入り組んでいる。
 
1869年
(明治)
 藩籍奉還、度会県となる
 1874年
(明治)
 野依学校が出来る(森区内)  
 1886年
(明治)
 勤成尋常小学校発足(磯区内)  
 1889年
(明治)
 豊浜村誕生(初代村長 茂利九一氏)
度会郡豊浜村
 
村役場(現豊浜支所)
1906年
(明治)
我が国最初の機械式かんがい施設稼働
建設に功績のあった小川徳太郎の遺徳を称え
毎年2月6日を灌水記念日とし式典を行う。
 
(上区公民館前)
  1930年
(昭和)
豊浜西尋常高等小学校完成(現豊西小学校) 
 1945年
(昭和)
 終戦、豊西地区より戦没者138名  
表忠碑(小川区)
 1952年
(昭和)
 豊浜大橋完成(磯の渡しが廃止される)  
磯の渡し(碑は磯区内にある)
 1954年
(昭和)
 伊勢市に合併する  

資料「有滝道遺跡」三重県埋蔵文化財センター
皇學館大学史料編纂所報
郷社磯神社物語
伊勢市史
伊勢山田散策
姓氏家系大辞典
伊勢の文学と歴史散歩
植山歴史研究会資料
豊浜村誌
野依の歴史創刊号、2号、3号
伊勢とりぷ倶楽部


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